東京アパートのこと
- misima
- 2018年12月19日
- 読了時間: 5分
更新日:2022年3月11日
築40年で解体された昭和のアパート。

東京アパートは、中目黒5丁目にあった、鉄筋コンクリート造の戸数120戸の共同住宅、昭和30年の建設。当時の最先端、昭和の著名な文化人が集ったとされる原宿セントラルアパートの建設される3年前です。子育てのころ住んでいた
老朽化により取り壊されたましが、建設当時は周辺で最も背の高い建物であり、先進的な共同住宅であったことは「東京アパート」という名称にそれが現れていると思います。わが国で鉄筋コンクリートの共同住の供給が本格的に始まったのが昭和30年の半ば以降であるので、まさにマンションの黎明期、その先駆けであったと思われます。

ここに「東京アパート」がどういう建物であったかを記します。たとえば電話交換手が常時待機し、セントラルヒーティングでしたし、大きなスチール窓など、当時の先進性が伺われます。先取の気概のある居住者層の需要に応えたものだったのでしょう。新築時からずっと済んでいた老婦人によれば、弁護士とか、医師とか、そういう居住者が多かったと言われます。その方も令夫人といわれるような雰囲気をお持ちでした。
また、当時珍しいエレベータを2機備えていました。これらのエレベーターのドアは昔のフランス映画に出てくるような蛇腹式でありました。乗客は自らの手で開閉しなければなりませんでした。

洋画とちょっと違うのは、乗り場の外扉は鋼板ドアで、客人が来たときこの外扉だけ閉めて内側を閉めないで降りてしまうので、エレベーターはしばしばその階で止まったままになってしまっていました。モーターは三菱製でした。
またセントラル暖房があるのですが、120戸の一番端の住戸にまで届くように重油ボイラを焚くので、ボイラ近くの住人は寒さ知らず、毎朝カンカンというスチームハンマーの音で目を覚ますのですが、あまりに暖かいのでスチールサッシの窓を全開にしていたところが多かったものです。スチールサッシは隙間風が入るのが難点ですが、シャープでモダンなデザインでした。
各住戸面積は36㎡。6帖と4帖の和室とコンパクトなDK。水洗トイレに浴室。しかしまだ空調の概念が乏しい時代で、台所に換気扇はなく、浴室の中も湯気でもうもうとなっていました。しかし、狭いながらも鉄筋コンクリートの共同住宅は、いわば建設当時はあこがれの新生活があったと思います。あこがれのマンション黎明期の建物です。和洋折衷の住宅形式はまだ暗中模索で、今思うと多少妙に感じますが、しかし当時としての先進的であったことは間違いありません。

私は、昭和62年からここに住みました。 建物全体はコの字型をしていて、大きな中庭があり、広場のような中庭には桜の大木が何本もそびえ、落ち葉が積もり、子供が走り回わり、ぽっかりと都市に残こされたオアシスの趣がありました。写真は満開の桜の下での私の子と愛車です。
東京アパートは、紅露さんという方が、新築当時は議員をされていて、日本の将来に期す社会福祉的な目的で建設したと伺っています。建築当時はこれだけ先進的であったにもかかわらず、年代を経て、老朽化が進み、私の入居した当時は破格の賃料の設定となったもので、家賃6万円2千円だったと記憶しています。子育て中の家庭に良心的な設定でたいへんありがいものでした。
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さて、建設後40年あまりで取り壊されることになった東京アパートですが、建築としての寿命と考えると短かったように感じないではいられません。ここで少し建築的な面から記します。
昭和30年と言うのは、戦後、全国的に建設への意欲がもりもりと満ちていた時代。東京アパートにもそういう時代の中で試みられた先進性が見て取れます。しかし、わずか40年で取り壊されてしまったのは、この時、東京アパートは2重の意味で寿命が来ていたと考えられます。このことを記してこのテーマは終わりとします。
1)、この建物のコンクリートの品質はよくありませんでした。軒先のコンクリートが突然剥離して落下するほどに劣化もありました。本来コンクリートは10i0年でも200年でも耐久性のあるものですが、この時代の建物にはあり勝ちです。今日はJIS認定工場で厳しく管理されて、施工においても材料から生産、打設に至るまでたいへん厳しく管理されているのでこのようなことはありませんが、そのどこかに問題があると、コンクリートはこのようになります。古い建物の中には時々このようなものがあります。今耐震で問題とされる建物も、こういう例は時々発見されます。
2)、しかし、このとき東京アパートは、実はコンクリートが丈夫であったとしても社会的には住宅としては限界に達していたと思われます。一般に建物が寿命を迎えるのは、構造耐力がダメになるのではなく、実は時代に合わなくなるからです。東京アパートも建設時にはモダンな佇まいであったにもかかわらず、高度成長期において時代の流れに置いていかれることになり、40年を経て生活スタイルの変化に置いて行かれてしまいました。いくら趣があるとはいえ、和洋折衷のプラニングは問題があるとされてしまいました。
3)しかし、ここでこのことの意味を推し計ると、たとえば欧米の国々ではどうかと言うと、古い建物は改修に改修を重ねて、100年を経ても快適な状態で使用している例がいくらでもあります。これに比べて、建て替えを余儀なくされた東京アパートはこの象徴的な例でもあると言えます。①コンクリートの問題は仕方がない。②しかし生活様式の変化は、なぜ改修工事で対応できないのでしょうか。
このことは我々に、実はもっとよく考えて設計しなければならないこと。もっと注意深く建設しなければならないことを警鐘を示していると思います。当時の他国に比べて我が国の以前の状況が劣っているとは思いませんが、実は問題がある建物も多くあります。特に現在は古い建築の耐震性に問題があることが分かってきました。東京アパートは建替えられて事なきを得ましたが、まだまだこのようなマンションは残っています。
注)写真は東京アパートが解体される時居住者に配られた写真集「穏やかなとき」から借用しました。
1981年から87年まで住んでおりました。紅露さんから折角送っていただいていた冊子を紛失していたのですが、こちらで写真を発見し、懐かしさのあまり感激いたしました。現在は横浜にすんでおります。当時は狭いながらも親子3人暮らし、子供が2人になったときに引っ越しを余儀なくされましたが、大好きな建物でした。周辺も全く変わっていることとは思いますが、近々再訪してみたいと思います。貴重な解説も勉強になりました。ありがとうございます!