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福島第1原発廃炉現場視察

  • 執筆者の写真: misima
    misima
  • 3月13日
  • 読了時間: 10分

第19次視察団に参加


令和6年の暮れも押し迫った12月25日、私はJASOの企画する福島原子力発電所視察団に参加した。それは世紀の大事件の現場を見たいという興味からでもあったが、実は私はその原発事故のあった時、仙台塩竃の津波被害復興支援に携わり、行き帰りにそのあたりを何度も通過したことがある。そこには決して忘れることのない風景があった。私は、砂嵐の中をダンプトラックが連なって駆け抜ける殺伐とした中の、原子力発電所の周りに取り残された街、商店、家々、が死んでいく姿を見ていた。しばらくして仙台塩竃にようやく復興の呼び声が聞こえるようになっても、そのあたりには全く何の希望も見いだせない家々が残されていた。

その時の衝撃を今もう一度思い出すために、写真を一枚貼り付けておく。


ぽつんと取り残された民家

 

一方で、実は当時私の携わった復興工事は決して順調に推移している訳はなかった。そこには現実的な障壁が幾重にも横たわっており、現場を訪れる度に毎回その越えられないギャップに困惑していたことが思いだされる。

当時、福島浜通りへの気遣いがあった。復興工事がある程度進み、地元と心の交流も生まれて、うれしくもあり、現場にある種の高揚感さえ生まれたが、にもかかわらず福島のことはあまりにも沈痛に感じられた。皆押し黙るしかなかった。その時は、地元民に限らず日本中の心が福島浜通りに吸い寄せられていたと思う。責任を追及する様々な報道が繰り返される中、私は自分の中の揺れる心を租借しながら、猜疑心を育てていたように思い出される。

 

福島の状況は際立っていたと思う。それは、仙台塩竃では少なからずそこに“希望”があったのに比べ、福島の浜通りに横たわっていたのは、はっきりと言えばただ“不信”であったと思う。しかし今では、その事故の事実認定が行われ、前後の問題も明らかになり、事故責任が高裁で裁かれるようになった。事後の処理には様々な気持ちが交錯するが、ただ今これには触れない。

 

その福島の原発事故現場に視察に向かう。塩竃の復興工事に携わって以来12年が経っていて、私はその時の気持ちを正確には思い出せない。私はやむを得ず現実を受け入れ、現実を悲観もしない。以前とは違った気持ちで、今度はJASOの一員として視察団に参加した。

この視察団の経験を風化させないために、特に印象深かったことを一つ二つ記述したい。

 

・・・・・・・・・・・・・・

 

まずそのひとつ目。

私は、この大事故の責任企業である東京電力が、この事故のあらましを実際にどのように語るのかを聞いてみたかった。

結果は空振りだったが、東京電力の語り口は、今までにすでに語られたごとく、視察団にも同じく「全責任を東京電力が負う」との繰り返しに過ぎなかった。やはり私には当時からの“不信感”があったためか、しかも前日から私はすごく体調が悪かったからか、尚更このフレーズへの違和感を覚えた。

 

順を追っていく。

我々視察団の一行は、はじめチャーターしたバスで向かったが、そのまま廃炉の敷地内に入ることはできなかった。まず敷地の外にある広報資料館に入り、専用のバスに乗り換える。厳重なテロ防止策の中ではじめて視察が許される。その厳重さには被爆への配慮が重なる。線量計を胸ポケットに忍ばせる。その用心深さに少し感心したが、そうして我々は用意された説明ビデオを視聴した。

原子力発電所に夢があった時代

 

そのビデオのエンディング。会場の大きなスクリーンの濃紺の画面に一行のテロップが映し出され、そこに書かれていたのは、「東京電力にすべの責任がある。」と言うお詫びのフレーズだった。

少なからずドキッ!とした。ここでも繰り返して言い切ってしまう。すでに法廷でも結論が出ているからであり、他方では国の責任も明らかにされている中で、これを企業の姿勢として示したもので、これは間違いではない。しかしそれは過度に感情的な追及を逃れる方便に過ぎないと、私には思える。単なるお気持ちの表明で、この後に続くべき中身がない。中身のないお詫びには、どこか軽んじられているような気持にもなった。

 

今の私は以前と違って地元住民の気持ちに寄り添う建築士ということはない。責任を追及したいとは思わない。私は、全電源喪失の際の生々しい当事者の説明が聴きたかった。

東電は巨大な組織の利益相反があるのか、自らその問題の中心をつまびらかにする姿勢は乏しい。全電源喪失に至る致命的な判断ミスをスルーし、自然災害である津波の到達高さ等にフォーカスし、これには全く申し訳ないが私は訝しく思った。

 

東電のその後は淡々と廃炉状況の説明が続けられた。私に分かったことは、東電は、全電源喪失は致命的ではあっても、より大きな話題性のある津波到来の事件性の前に、建屋の堅牢性や、安全性や、水蒸気爆発などの他の様々な要因のなかに埋没する事象のひとつにすぎないと言いたこと。あるいは、すでに、すべて私たちの責任ですと言っているのだから、もう十分だろうと言いたいのかもしれない。

 

しかし私は、直接的な回答がやはりここでは必要であると思う。電気室の水没が致命的であったことをもっと公にし、その状況を、例えば文学的に語ってはどうかと思う。(これはまったく何の背景もない思い付きに過ぎませんが。)

担当した東電の建築技術者は、この建屋の電源の問題が報告されて気が付いた時、あるいは東電がこの事実の隠ぺいに走り無視を決めた時、彼らはどうしたのか。彼らは先輩から電気室を地階に置く危険性を学んだりしたことはなかったのか。私事で言えば現に建築士の受験指導のなかでこれは指導されることである。武蔵小杉の超高層マンションが、内水反乱時に地下の電気室が水没し機能がマヒしたことも記憶に新しい。原発の施設設計者はアメリカ人であり津波を知らなかったと伝えられるが、もし仮に私がそこにいて、致命的な不備に気が付いたとして、何かができたという考えではない。現在は裁判上の言葉で「予防責任」という概念が語られているそうだが、考えさせられるところである。

 

私は、ここでやはりかつて共に復興に励んだ塩竃の被災者たちを思い起こす。津波に生活の糧であった工場建屋を流され、家を流され、生活の場を失った人たちが、責任追及をせず淡々としていたのを私は見てきた。津波を止められなかった堤防が低すぎたと責任を追及する人はいなかった。また復興工事が遅れても、その責任を実際には追及しなかった。

人はその当事者であっても、その背景にある真理に深くかかわることは難しい。ましてこの巨大災害の中では、かかわることのできる範囲が限定され、それがごく僅かであることを皆が受け入れる。あまりの事故の巨大さがそうさせている。そうしてまた再び生活ができることに感謝する。

 

また私はその時、仙台塩竃の工場設計時に入手可能な限られた情報、資材、マンパワー。そして時間もなかった。決して万全ではなかったから、だから万全であることを求めていては始まらないと、責任を取るべき範囲を考えたことを思い出す。私も責任について糾弾されたくはない。

ただ、比べるべくもなく絶対的に深刻であるのに、原発事故もまた同じ構造で流されていると思う。本来の責任を感じるものであれば、今のこの東電の姿勢はないだろうと思う。

(あくまで個人の感想です。複雑な社会構造があるので、私の理解を超えるところもあると思う。)

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 

もう一つ述べたい。

今回の視察団に加わるまで、私に廃炉についての知識はほぼなかったが、廃炉作業を進める従事者の気持ちに思いを馳せた。

 

なぜなら、つまり生産性がなく将来性のない最悪なイメージの廃炉従事者であるなら、それは決して通俗的なものでは務まらないだろうと思うからだ。近年こうした心情的なところを耳にすることは少ないが、実際にこの廃炉の作業は辛いのではないか。この現場では人は何を考えるだろうかと思った。

メルトダウンから廃炉と言う、およそ誰も未だ経験したことのない途方もない事業に従事し、毎日毎日線量計をカウントしながら、人は何を思うだろうか。

駅の線量カウンター

 

しかし、私は彼らに聴いてみることはできなかった。私の体調が少し咳き込ませている所為もあったが、それはこの時まで彼らから技術的説明を受け、廃炉工程が私の想像を遥かに超えていることを知ったためである。例えばデブリに迫ろうとするロボットが線量でやられる。またその線量を計る概念。また4機の廃炉計画がそれぞれに非常に複雑であること。それらは私の測り得るレヴェルものではなかった。

また、ちょうどタイミングよく、視察団が福一を訪れる前日に報道されたのが、ようやく取り出したデブリの中にウランの存在が発見されたという、つまり今までの廃炉のロードマップがでたらめだったという驚くべき事実があった。今彼らに気持ちを訊ねると、会社の立場で弁明するか、あるいは本心を話す場所ではないと判断されると思う。それゆえ私があらかじめ思っていた質問が失礼に当たるような気がして、私は言葉を飲み込んだ。

 

ここで再び12年前、復興工事に多くの有志が馳せ参じて来たことを述べる。

私の場合は、それは震災から3ヵ月目、故郷の友人の誘いから始まった。「自分は岡山からトラックを出すから、君は東京から同行して設計をやってもらえないか。」この誘いを私は躊躇なく承諾した。おそらくこの時期、日本中から同じようにして有志が集まったと思う。津波による未曽有の災害を前にし、日本中にこの前例のない壮大な現象が生まれたのである。私はこの時以来世界中に日本人のある種の規範が広く知れ渡ったものと考える。

だからここに集る人に、それは決してつまらない質問ではなかったと思う。廃炉の業務を、隔離された地での人身御供だとは言わないと思う。すでに多くの人道的なストーリーはあるが、廃炉への従事は、今後とも誰も未だ経験し得ない何者かなのだと思う。

 

・・・・・・・・・・・・・

 

失礼なことを聞かなくてよかったと思うのは、もうひとつある。

それは東電の広報資料館の位置づけである。外観はキューリー夫人の生家を模しており、この事態において転用したと説明されたが、その時思わず、この施設の観光資源としての将来像を聴いてみたいと思った。

我々の一行は、最初に広報資料館に入った時から実は観光客であった。非常に丁寧な扱いを受け、続いてバスに乗り替えて廃炉の場内に入り、車窓越しに様々な建屋の案内を受けた。廃炉現場の見晴らし台でバスを降りたが、この時がクライマックスであった。そこでは記念写真も撮った。

記念写真を撮る。つまりこれは、いずれ廃炉工程が十分に観光資源になり得る証明である。

 

今回案内してくれた東電の広報担当者は、今後は、廃炉の工程を更に広く知らしめたいと言う。それは実質的には観光化と同義である。ただしそこは不遜にも真摯な取り組みを茶化すものと受け取られるかもしれないからそれは避けたい。私は、それならばとその担当者に少し話しかけてみたが、うまく伝わらなさそうだったので尋ねるのを止めにした。おそらくもっと具体的で壮大な計画を持っているのだろう。

私は、今のこの広報資料館においても、原発事故の責任を負うものは一企業ではなく我々人類の責任であることを明確に示すべきではないかと思う。そうでなければ、この先、原発の議論を進めることはできないからだ。帰り際に、ちょうど中国人の一行とすれ違い、尚更の思いがした。観光化すれば更に多くの人が訪れ、今後何十年もかかる廃炉の時間において、十分に深く考えることができて、次の時代に引き継ぐ形ができると思う。

 

 

観光化という言葉に補足したい。

かつて仙台塩竃の復興事業でのこと。ある時、観光バスの乗り入れの提案があり、津波被害、復興事業、すべてを観光資源とする考えに至った。これを受けて工場の設計方針を変更した。皆これには活気づいた。

これと同様に、観光化すれば、廃炉工程を皆が望む姿に変貌させることができると思う。廃炉工程にさらに多くの人が訪れる日が来ることを願う。

 

 

おわり

 

 

 

 
 
 

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