能登半島大地震状況調査
- misima
- 2024年8月9日
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更新日:3月13日

能登半島地震被害の特徴として特に私の目に留まった状況について報告する。多くの木造建物が被災したが、ほとんど無傷で残った建物とそうでない建物が混在していること、について特に注目すべきところがあると思う。ここでは寺院の被災状況から民家の被災状況、復旧・復興について順に記述して行く。
寺院建築(伝統工法)について
1.真宗大谷派善龍寺
まず初めに、輪島市朝市の大火に襲われた一帯のすぐ隣にありながら延焼を逃れた、真宗大谷派善龍寺について報告する。本堂は伝統工法による堂々たる木造建築であるが、本堂が倒壊を免れているのに対し、その両側に建てられていた庫裏や水場の部分が倒壊していた。
本堂を背後から見るとわかるが、本堂の建屋はダメージを負いながらも倒壊には至っていない。重い瓦屋根に損傷が見られ壁の傾きも小さくはないが、建屋の形状は維持されている。しかし、本堂の左右にあったはずの庫裏と水場のフォルムを見ることはできない。それぞれ倒壊して残骸と化しているのがわかる。
本堂の内部を見てみる。被害状況は、柱の傾斜はあるもののその角度は僅かである。床の剛性もしっかりしており、構造体の柱・梁も形状が維持されている。詳しく調べたわけではないが、修復可能と考えられる。
しかしこれに対して本堂の右手にあった庫裏は完全に倒壊していた。入口のコンクリート製の階段や高基礎が残っており、この庫裏の建物は近世に建てられたものと分かる。
本堂がダメージを負いながらも被害が軽いのに比べ、年代の新しい庫裏がこれほど完全に崩壊している状況は一見不釣り合いに思われるが、その理由は、本堂と異種構造でありながら繋がっていたためではないかと思われる。本堂との接続部分が崩落しているので断定的なことを述べるのは憚られるが、本来はこの部分は本堂よりいくらかの距離を置いて建設されるべきところである。しかしここでは風雨を避けるために屋根・壁が繋がり構造体も相互が接続していたのではないだろうか。大きな本堂が揺れる時の水平方向の圧力に対抗することができず、ボリユームの小さかった庫裏は、その圧力に負け、結果として構造材が破断し押しつぶされたのではないかと想像される。
また、本堂の左側に増築されていた水場(トイレ等の増築)も倒壊している。増築された下屋部分の壁は崩壊し、屋根は落ちている。増築部分はコンクリート基礎にアンカーボルトで土台が留められているた め、この部分は在来工法によるものと分かる。この部分も庫裏と同様の現象の中で、本堂の揺れに対応できず、工法の違いにより堅く固められた部分が崩壊したものと思われる。
一方で同じ境内にありながら、本堂と距離を置いていた建物は、地震に耐えて健全な状態にある。庫裏も若し離れて建っていたなら倒壊はなかったかもしれない。もちろん構造自体が極端に脆弱であった可能性はあるがそれは分からない。
2.曹洞宗本山総持寺 経蔵
次に、曹洞宗本山総持寺について記述する。写真は1,745年建立の経蔵である。伝統工法による堂々たる建築物である。今日まで周囲に増築はなく、左右対称のシンプルな形状が地震に対し幸いしたものと考えられるが、周りに倒壊した建物があるにもかかわらず、この経蔵はほぼ無傷である。
経蔵の構造は、今日の一般的な在来工法と異なり足元は固めていない。基礎石の上に柱は載せているだけである。柱は横に架ける貫の構造材により固められているが、柔構造を構成し、免振として働くものと考えられる。地震時に左右に揺れたため白塗りの塗壁には亀裂がみられる。しかしひび割れの被害だけで済んでいる。左右に大きく揺れた後に構造の持つ復元力により元の位置に戻ったものと考えられる。
内部の八角形の回転経堂も、華奢な構造体であるにもかかわらず無事な様子である。この小さな構造物も足元は固められていない。地震力に対して強い力で対抗したものではない。
3.同 芳春院
しかし、経蔵と比較されるのがこの芳春院である。建物は完全に倒壊していた。
芳春院の構造形式は不明であるが、複雑な平面形状をしていたのではないかと思われる。仮に近世に建てられたものとすれば、耐震設計に問題があった可能性がある。旧耐震の時代に建てられたものであれば、耐震診断を行い、適切に耐震補強をしていればこのような倒壊はなかったものと思う。
4.同 山門
総持寺山門は近代になりこの場所に移築されたものである。大きな地震力を受けたにもかかわらず本体には傾斜も残っておらず構造体は健全である。地震時に脱落した木格子や羽目板により、この建物が大きく揺れて一時的に変形したことが見て取れる。改めて伝統工法により建てられた寺院建築は地震に強いことを世に再認識させている。
山門の柱の腰の部分を見ると、固くではなく緩く留められている仕組みが分かる。
地震力に対抗して柔構造を形成するために、腰部分はこの羽目板により必要な量だけの剛性を確保するに留めている。全体の構造は、貫の構造の耐力により地震力に対抗している。重たい上部構造が免振の重りとなり、よくバランスさせて柔構造を構成していると感心させられる。
5.同 鐘楼
山門の左手に位置する鐘楼はほとんど無傷であった。基壇を構成する石組みの一つが外れているので、この建物の地盤も大きく揺さぶられたことが分かる。だが大地震に対抗し建物に目立った損傷は見られない。
6.同 回廊
寺院建築が大地震に強いことが実証されたわけだが、ここからは、これらの寺院建築をつなぐ回廊について述べることにする。
左の写真は前出の山門と鐘楼の間にある回廊である。地震力を受けたダメージは、両側の建物には現れず、より小さなボリュームの回廊に歪となって出現している。
ところが、山門と庫裏との間をつなぐ回廊は完全に倒壊していた。この回廊は近年に新しく建てられたものであり、基礎はコンクリートで造られ、土台がボルトで堅結されている。伝統工法によるものではない。耐震設計がなされたものと思うが、なぜ倒壊に至ったのだろうか。断定はできないが、根本的な原因は、おそらく異種構造の建築物が不用意に接続されていたためと思われる。以下に、同寺の他の部分の回廊を比べて考察する。
ただし、この回廊については別の問題も指摘されている。
というのは、同寺の回廊には、梁と柱との接続部分に新しく考案された制震金物が採用されていた。(柱と梁とを接続する部分に三角形の金具が取り付けられている。)残念ながらあまり役に立たなかったと考えられる。
倒壊した回廊を見て:
新工法を考案し制震金 物を追加して建てられたものと思われる。詳細が分からないので推測ではあるが、今日の常識的な見方では、まず第一に異種の工法を採用するなら構造体を分離すべきだったのではないか。回廊は両側を山門と庫裏に挟まれており、華奢な架構のために、その両側の頑強な建築物に挟まれてつぶされたものと想像される。接続部分は、小さな雨除けのようなものであっても力が伝わらないように入念に注意すべきだったと思われる。
また、仮に取り付けられた制震金物それ自体に問題がなかったとしても、この回廊のようなところでなぜ新工法を考案したのだろうか。意欲的な新技術は進歩を促すものだが、良くも悪くも大地震こそが実証実験となり次の時代につながるものである。この教訓は今後に生かされるものと願う。
左の写真は同寺の他の回廊である。大きな建物に工夫もなく接続されたために、その接続部分に歪が残っている。
また左の写真は標準的な接続部分を表している。本来はこのようにすべきである。屋根・壁を連続させずに高低をもって互い違いにし、構造体が直接つながっていなければ、地震力を受けても被害はこの部分だけで済む。左右の構造体は無事である。
また次の写真は、工法の違う2つの建物に隙間が出現している様子である。伝統の工法(足場立て工法)の建物と、塗り固めた壁構造との間に、揺れによる隙間が生まれたが、この場合は左右とも大きな被害は免れている。
7.同 閑月門
次に示すのは華奢な構造の同寺の閑月門である。片側の柱が塀に繋がっているために、揺れに対して塀の拘束があり、結果として柱は傾むいてしまった。仮に閑月門が塀から少し離れて建てられていた場合、被害はどのようなものであっただろうか。もちろん単独であればむしろ早期に崩壊した可能性もある。この場合は、異種構造ゆえに切り離して建てるのが基本だとは早計かもしれない。耐震化は一般化するものではなく個々の特性を見るものとされる。
<考察と提言>
これまで寺院建築を見てきたが、建築基準法では、そもそも異種の構造方式による建物は接続しないことになっている。これは、伝統工法による本堂と、在来工法による庫裏についても、水場の小さな増築においても同じである。
しかし、実際の寺院建築はどうだろうか。我が国の他の地域の寺院も、実はここで取り上げた善龍寺や総持寺に類似した状況にあるものが多いのではないだろうか。
善龍寺のように利便性のため本堂の脇に水場を設け、渡り廊下、庫裏などが接続され、また同様に、雨風を避けるためという実用上の要望のために、あるいはごく小面積と言いう理由で、構造的に深く考察さないままの状況が津々浦々に存在しているのではないだろうか。また、曹洞宗総持寺の回廊のように、異種構造の回廊の不用意な接続があるかもしれない。認識されないままの異種構造の入り交じり状態があるかもしれない。
しかし、宗教施設である寺院には公的な耐震助成の手は差し伸べられない。これらが的確な助言を受けることなくおざなりに放置されている可能性がある。ここは、寺院であったとしても公的な理念に立ち返り、たとえば、専門家の派遣などの働きかけがあると状況は改善されるのではないかと思う。
8.在来工法の耐震性能について-その1
これまで木造建築のうち寺院の伝統工法について記述したが、次はここまで比較対象としてきた一般住宅の在来工法について記述する。
左の写真は、周囲の建物がほとんど倒壊している中に、この家屋だけがぽつんと生き残ったものである。新しく建築された在来工法の住宅である。
想定より地震力が大きかったために筋交いが1本破断し、サイディングが剝がれたが、結果的に十分に耐震設計の責任を果たしたものと思われる。
筋交いは上下とも金物で緊結されており、筋交いのうちの1本が圧縮時に外部に膨らんでサイデングを破壊し、引っ張り時に限界がきて破断してしたもの。設計限界までよく頑張ったという好例である。
しかし、在来工法であっても崩壊している建物がある。左の写真は古い年代のもので、筋交いに金物での拘束がなく、このため大地震時には大きく揺れて筋交いが外れてしまう。2000年を境としてそれより古い建物には耐震性能に大きな差があるが、このことはまだ広く知られているとは言えない。
9.在来工法の耐震性能について-その2
消防団の車庫
地域の消防団の車庫である。消防用の重要な建物であれば十分な耐震性能を付与すべき対象であるが、地震により入口の張り出した部分に歪みが出てしまった。よく観察すると、この建物の耐震設計に少し問題あったことが分かる。
写真の左下を見ると、入口の張り出した部分の基礎は一体成型ではなかった。この部分は張り出しているために特に大きな揺れを受けるが、基礎のコンクリートがそこで割れたために、その上に乗る壁が崩れ、結果として下屋の全体が歪んでしまったと考えられる。なお、この時の地震力の大きさは、基礎からアンカーボルトが飛び出ていることから伺える。大きく揺れて建物本体が飛び上がりアンカーボルトから外れたものと思われる。(写真の〇印中に基礎の割れとアンカーボルトの外れた様子がある)
10.能登の被害状況において、個別の耐震性能の優劣が可視化されている。
次に、能登の被災地域をあちこち回ってみて、その結果強く感じられたことを記述する。
左の写真。2棟の家屋があったが、左の家屋は無傷であり、右の家屋は崩壊している。これは、耐震性能の優劣の差は小さいものではなく絶対的に大きいことを表している。地震に遭わなければ分からなかったが、無残にもその差が可視化されていると思う。
次の写真は、同一街区の中に、崩壊した家屋とほぼ無傷の家が混在している
ところである。左側の家屋は1階が崩れその上に2階が乗っている。右側の手前の家屋は倒壊し残骸となっている。しかしその奥の家屋はそのまま建っている。耐震性能には優劣があり、可視化された状況である。なおこの地域は津波被害も受けているが、津波被害は地震被災の後にダメージがより拡大されたものと思われる。
次の写真は、廻りがすべて倒壊している中で、この2階建てだけが生き残ったもの。手前の廃材の山は、道路復旧時に倒壊した家屋の残骸を積み上げている。この2階建ての耐震性能がすぐれていたためである。
次の写真は、倒壊は免れているものの、左右の家屋の耐震性能の差がダメージの差になって表れている。左右の家屋はいずれも下屋の凸部の張り出しを持つ形状であるが、左の家屋により大きな被害がある。この差は耐震設計の優劣にあることは自明である。その優劣が可視化されていることに他ならない。
これらをまとめると次のようになる。
<考察と提言>
我々は、地震被害について、地盤が軟弱だとか、液状化とか、特に強く揺れたとか、いわば場所の属性によって、その大小を表して来たかもしれない。確かにその側面はあるが、しかし、実際にはその建物の持つ個別の属性としての耐震性能の差で、生き残るか、崩壊するかが決まることが多い、その差は甚大である。
この状況を、能登半島の被害状況はよく表していると思う。同じ街区の中で、隣り合う家屋の間でも、倒壊する家屋と生き残る家屋の対比が見られた。
ここには教訓があると思う。誰しも自分の所有する家屋の耐震性能を気にせざるを得ないと気付くようになるだろう。
11.復旧・復興について。
最後に、現実的課題である復旧・復興について述べたい。
ここ能登半島において被災した家屋のうち、復旧の可能なものは残念ながら多くないと考えられる。街のコミュニティが失われていれば、生活は成り立たない。単体での復旧はあまり意味がないと感じられる。仮に公的支援を受けられるにしても、地域経済や人口過疎から見て、復興はさらにたいへん難しい課題である。
寺院について言えば、宗教建築には公的な支援はなく自力で復旧の方法を探ることになり、財力のない寺院は遺棄される可能性がある。まして復興となると困難さばかりが思い起こされるところである。
私はかつて仙台塩竃の復旧工事に携わった時、補助金を得て設計を行った。しかし当初描いた設計は年月の経緯とともに見直しが必要となった。様々な変節もあった。そうして実際に11年を経緯して思うのは、建屋の復旧が直接的に復興につながるものではないということ。復興は何よりも時間を必要とする道のりであると思う。
<考察と提言>
我々には、かつて東日本大震災を経ての反省がある。復旧・復興を一大事業としてとらえ、結果としてずいぶん方向違いの事業や、後になってみると無駄になった支援事業を行って来たかも知れない。さらに能登半島においては、今日までむしろ自然発生的に生まれてきた集落であり家屋であるから、ここにおいて人の感性は揺れ動き、今後どのように復旧すべきか、支援すべきかの判断は非常に難しいことが想像される。復旧・復興は非常に難しいテーマであることを鑑み、一般に行われる短期での支援事業ではなく、長期で行うべき事業であることを考えに入れたい。
9月14日 三島直人
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